~生きとし生けるものが幸せでありますように~

ダンマナンダ長老
『ハッピー・マリード・ライフ - 仏教の教える幸せな結婚生活とは?』

第二章 愛と快楽の本性

・愛とは

愛には異なる種類のものがあります。それらはさまざまな表現をされています。母性愛、兄弟愛、感覚的な愛、感情的な愛、性的な愛、利己的な愛、自分を度外視した愛、普遍的な愛…。

もし人々が単に自分の現世的で利己的な愛のみをお互いに発達させるならば、この類の愛は長くは続くことができないでしょう。
真実の愛の関係においては、人はどれだけ得ることができるかを問うべきでなく、どれだけ与えることができるかを問うべきなのです。

美しさや容貌や若さが消え始める時、愛の身体的な側面のみを考慮する夫は他の若い女性を得ようと考えることでしょう。
この類の愛とは、動物的な愛、もしくは肉欲です。
もし男性が本当に相手への人間的な心遣いの表現としての愛を育んでいるならば、彼は自分のパートナーについて、外面的な美しさや身体的な魅力のみに重きを置くことはないでしょう。
パートナーの美しさや魅力は、心にあるべきものであり、見えるものにあるのではありません。
同様に、仏陀のみ教えに従う妻は、たとえ夫が年をとっても、病める時も貧しき時も、決してその夫をなおざりにはしないことでしょう。

「現代的な女性が一ダースのロミオを持つジュリエットでありたいと思うことを、私は恐れています。そうした女性は冒険を愛します。…現代的な女性は、雨風や日差しから身を守るためではなく、注意を引くために服を着ます。そうした女性は、化粧し、目立つようにすることによって本来の姿から良くなろうとします。」
(ガンジー)


・性(セックス)とは

性(セックス)はそれ自体としては「悪い」ものではありません。とはいえ、セックスへの渇望や誘惑はいつも心の平安をかきみだすものではあります。ですので、精神的な成長にはセックスは役に立ちません。

理想的な状況では、セックスは、パートナーがともに平等に与え受けとるところにおける、感情的な関係を深く満たす、身体的な絶頂です。

私たちが「西洋的」な文化と呼ぶものにおける、マスメディアを通した、商業的なグループによって、描かれる愛の描写は、「本当の」愛ではありません。
動物はセックスしたいと思う時、その「愛」を示しますが、セックスを経験した後には、単に愛を忘れます。動物にとっては、セックスは単に生殖のために必要な本能的な原動力です。
しかし、人間は、愛という概念において、ずっと多くのものを提示しています。
義務と責任は、人と人との関係において、夫婦がひとつであるために、そして調和と理解を維持するために、重要な要素です。

「セックスは、結婚生活における幸福にとって、最も重要な要素というわけではありません。
セックスの奴隷となった人々は、結婚における愛と人間性を台無しにしてしまうことでしょう。そうではなく、女性は男性の肉欲の対象としてのみ自らをみなすことをやめねばなりません。その解決手段は、男性の手の中よりも女性自身の手の中により多くあります。女性は、単に男性を喜ばせるために自分を飾ることを拒否しなければなりません。たとえ夫に対してであっても。もし女性が男性と平等のパートナーであることを望むならば、女性は自らの尊厳を高めるために服を着るべきであり、セックス・シンボルになるためであってはなりません。性的な嗜好を満たすための結婚は結婚ではありません。情欲です。」(ガンジー)


愛は実際にセックスから生まれるかもしれがませんが、その逆も同様に真実です。つまり、セックスは愛の表現です。理想的に幸せな結婚生活においては、愛とセックスは両方とも切り離せないものです。


・仏陀が説かれていること

男性と女性がお互いに対して持つ感情について、私たちは仏陀の教えを学ぶことができます。
仏陀は「女性の姿かたちよりも多くの男性の関心をひく対象をこの世に見たことはない」と言っています。
同時に、女性にとっての主な関心は男性の姿かたちです。
生来、女性と男性はお互いに現世的に喜びを与えるものだということをこのことは意味しています。
人は、他の対象からはこのような幸福を得ることはできません。
とても注意深く観察するとき、私たちは、すべての喜びを与えてくれるものの中で、男性と女性の姿かたちが同時にすべての五感を喜ばせることができるようには、同時にすべての五感を喜ばせてくれるものはこの世には他にはないと気づきます。

古代ギリシャ人はこのことを知っていました。なので、元来男性と女性はひとつのものだったと言っていました。男性と女性は分離されて二つの部分に分割されたので、常に男性と女性とが再び結合することを求めるようになったと。


・快楽とは

若い人々は生来、現世的な喜びに耽りがちです。現世的な喜びは、善と悪事を両方とも含むことができます。
善いことには、音楽や詩やダンスや良い食べ物や服やそういった物事を楽しむことが含まれます。それらは体を害することはありません。
それらは単に私たちを、存在のはかない本質と不確かさを見る事からそらさせ、したがって自我の本性に気付くことができるようになることを遅らせるのみです。

若者の能力や感覚はとても新鮮で機敏なものです。若者は、五感すべてを満たすものにとても鋭敏です。ほとんど毎日、若者はなんらかの形の快楽を経験するための方法や手段を計画し工夫しています。
まさにその存在の本性によって、人は決して完全には、人が経験する快楽にはなんであれ満たされることはないし、その結果としての渇望は次々により多くの不安と心配をのみ生み出します。

深くそのことを考えるとき、私たちは人生とは夢以外の何物でもないことを理解することができます。
最終的に、私たちがこの人生に対する愛着から得るものとは何でしょうか?
単により多くの心配と失望と不満のみです。
私たちは、快楽によって束の間楽しむことはあるかもしれません。しかし、最終的な分析においては、人生の本当の目的とは何かを理解することにチャレンジしなければなりません。

人が、感覚的な快楽への渇望をやめるとき、そして他の人々と一緒にいることに身体的な心地よさを見つけることを求めない時、結婚への要求は生じません。
苦と世俗的な喜びは、ともに渇望と愛着と感情の結果です。もし人が、非現実的な方策を用いることで自らの感情をコントロールし抑圧しようとすれば、心と体においてかえって混乱を生じさせてしまいます。
ゆえに、人間の情念をいかに扱いコントロールするか、私たちは知らねばなりません。
この情念を悪用することや誤用することがなければ、私たちは適切な理解を通じて欲望を飼い馴らすことができます。

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